何も廻らず。
冬は色々なものが整っている気がする。
何か「目的」というものに疲れてしまった気がしたので
特に明確な一日のビジョンを持たずに出かけた。
夜、母親の所に餃子を食べに行く約束をしておいてあったので、
噛み合わない感じになっても暇を持て余して部屋で過ごす事も無い。
退屈になりそうだったら早めに母親を訪ねて呑んで話してればいい。
この日は世間はセンター試験二日目。
昔暮らしていた国分寺に行こうと思って西武線に乗ったのだけれど、
ちょっと足を延ばして東小金井へ。
中央線ユーザーも用事が無い時に降りる事は無いであろう東小金井駅。
降りてしばらく商店街を歩いたところに
(言い方は失礼だが)薄汚れたクリーム色の建物があり
乱雑としているようでとても自然で、確実に芸術的で。
映画のセットを見ているような気持ちになる整然さだった。
こういう偶然が生むのか、人間の無意識が生むのか判らない整然さが
どうにも冬の街には溢れている気がする。
それは暑いと人間が(あるいは僕が)それだけ注意を注げる物事の視野が
狭まるという事なのかも知れないけれど。
東小金井は高校生の時に付き合っていた彼女の女子寮があったので
放課後に何度も降りていた。
その時はまだ古びたホームと地味な駅舎で
その古び方は東京~高尾の中央線の駅の中でもかなり上位だったと思う。
何と言っても国鉄201系(オレンジの中央線)で通学をしていたし、
時間は流れたな、と思う。
このセンター試験に向かう少年少女と僕達は同じ歳だったのだ。
その年の冬は誕生日にマフラーを貰って、
割と幸せな感じでそのマフラーを巻いていた気がする。
古びた公園は商店街にもあり、
俺もこの公園で青春をしていた…のではないか。
俺の見た目はそんなに変わらないし、あまり言う事や考え方も変わらないから
世の中にいる高校生カップルには到底見えなかったと思うけど。
思い出す事も想像以上の情報量だな。
普段閉じている箱の中には随分と記憶を隠しておけるものなのだな。
余程調子が良い時以外はこの箱は開きたくないものだ。
数々の凛とした空気を感じつつ、冷たい風も味方にして。
先ずは東小金井駅から武蔵小金井駅まで農工大の方向から歩いていく。
途中に八重垣稲荷という立派なお稲荷様があったので参拝した。
人間と言うのは不思議で、
以前この駅で降りた時には感じなかったものを感じていたり、
こうして興味の対象外だった場所が途端にとても素敵に思えたり。
穏やかな方が社務所にいらして御朱印を授かった。
直前まで名前も知らなかった場所が急に身近に感じて愛おしくなる。
武蔵小金井の北口まで抜けて、竹林と言うお蕎麦屋さんに入って
ビールを飲みながら詞を書いた。
町のお蕎麦屋さんとして凄く落ち着いていて良いお店だった。
その素敵な場所でどんどんあふれ出た言葉達を一度脳内にしまって、
学芸大学の近くをぐるりとまわって国分寺まで歩いた。
ぼそぼそと独り言とか呟いていたかもしれない。
路地や街道をゆっくり歩きながら
街路樹、フェンス、自動販売機、バス停…
そういうものがある度、なんども空を見上げてみたりした。
国分寺駅にほど近くに「雲波」と言う素敵な古本屋が出来ていた。
最近は川端康成を改めて読もうと思っているのだけれども、
ここではもっと純粋に興味深い世界の本を買った。
なにも古本屋で川端康成を買い直すこともないし。
素敵な本が並んでいておすすめです。
精神世界みたいな感じや、サブカル的な要素もありつつも、
知的な店主夫妻が読んだ本たちは統一されていて、
人柄を表しているようだった。
どことなく奇妙な趣もあり。
なんだろう、国分寺の駅には東小金井から歩いて行ったら
到着点みたいな感じがしてしまって、
物思いに耽ることも無く、町もじっくりは見ないで
直ぐに中央線に乗って八王子に向かった。
家ではビール飲んで餃子を30個くらい食べて。
録画してあった京都のブラタモリやマツコ・デラックスさんの出ていた
ヨルタモリをみたりした。
あ…途中、武蔵小金井の駅のそばの雑貨屋さんでお猪口を買ったので
夜、少しだけ母親と晩酌をしてから寝た。
と…まぁ、この日はふらふらとお散歩をしていた感じで
直ぐに思ったことを綴ろうと思っていたのだけれども…ちょっと
仕事で疲れてしまっていたりもして…書けず。
この国分寺に行った日からもう一週間経っているのだね。
その間にBjörkの新しいアルバム「Vulnicura」が
リークされたとかで急遽発売になったな。
発売された日は仕事の最中にiTunesでリリースされたと言うニュースを見て
帰宅してもまだ日本ではダウンロード出来ないようだったので
夜のカフェに行って赤ワインを飲みながらゴルゴンゾーラのポテトグラタンを食べ
寝る前にはDLして小さい音で流して、ストリングスの穏やかさに
直ぐに不気味なくらい深く眠って。
翌日は仕事で泉岳寺のヤマハに行ったのだけれども、
あまりにヘッドフォンから素晴らしい響きが連続して泣きそうになった。
地下鉄の中で聴いていたビョークの新譜の
時間の感覚を忘れるような美しく物悲しい質感がたまらなく日常に溶け込んで
あの作品が出て以来、どうにも僕はぼんやり過ごしている気がする。
そうだ、この日は偶然神社に参拝したけれども、
最近は世界のどこにいても、神様に挨拶をしている気持ちになれるので
どうしても参拝をしないでは居られないほどに追い込まれてはいない…
と言う事なのかもしれない。
この間、ここにも書いた弟との写真は実家でフレームに入れて飾った。
やっぱり写真と言うのは実際に印刷して物質的な意味を持つ事も大切な気がした。
日々、小さい散策をしていて思う事、
出来るだけ丁寧に心に刻みたいし、
音楽や言葉として残せればそれは素晴らしいのだけれども
あまり「残す」事に追い込まれると具合が悪くなるので、
少しずつ、整然と生きていけるようにしたい。
なんとなく冬の人なのだ、僕は。