How to Live as an Artist.

ただ過ぎる時間をいとおしく綴る。昔みたいに。

廻廊の中で。

お久しぶりです。


前回の更新が26日前と言う事なので
大分更新できないで居たと言う事なんですがものすごく悩んでました。

色々なところを訪れましたけど、
なんと言うか…自分の中で創作意欲と言うよりも、
もっと神聖な部分に足を踏み込んだ感じになった気がして。

正直なところ「これから音楽になるであろう」経験値は沢山積んだと言うか、
そういう意味では苦手な2月~3月上旬は凄く
うっちゃるように心を開いていけたかな、と思います。
沢山の友人が待っていてくれた、と言うのもあります。ありがとう。

まずは二月の京都。

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松尾大社で自分に流れる気を穏やかにしていく。
スマホが普及してからは、どうしても常に繋がる意識が強いから
「自分のためだけ」って言う贅沢な感じは減っている気もするけれども
それはつまらない事ではなくて…ツイートをしていると思うのは
(誰かが見ているのだろうか)とか(誰も興味ないんだろうな)とか
まぁ、大概そのような事なのかもしれないけれども、
特定の誰かの顔が浮かんで呟く事なんて一年に数回あるか無いかなので
贅沢に穏やかな時間や綺麗な空気を心に吸い込む瞬間に
「小さい存在ながら自分を生きているなぁ」と、すーっと感じます。

 

同時に地球、宇宙の終わりや時間の果てとかにも
トリップするような…そこにしか大切なものが無いような寂しさもあるな。

観光Blogとかでは無いので細かい事まで報告はする気になれないけれど、
2/25日だったので北野天満宮は梅花祭。
流石に綺麗だった。

今年、生まれて初めて「あぁ、二月は梅なんだ」って知った。
知ったと言うかそれを綺麗だと思って、その瞬間を信じれた。

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皮鯨の唐津焼のお猪口を1万円で買った。
後で写真は載せますね。
限られた時間の中での邂逅、その絶対的なリアルに触れると、
そこに流れる〝なにか〟に尊かれつづける人生、それに身をゆだねていれば
良いんではないか、と思う。

悲しみも、苦しみも、喜びも、なるようにしかならないけれども

二者択一で。

自分が選べる事と、自分で選べない事。
それを否定すると辛いだけだし、徒労なんだよね。
曲が出来るか、出来ないか…それは僕も知らないし、
曲が出来た瞬間に特別な事をしていた記憶も無い。
良い写真もそうだな…殆どなすがまま、とか、あるがまま、とか。
それで良い。

嵐電で「御室仁和寺」駅に移動。
どうせ蕎麦でも食うのかな、と思っていたんだけれども
駅前に無国籍風と言うか、ノマド風と言うか
「ファミリーキッチンPu」と言うカレー屋さんがあって、
興味を惹かれて入った。

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この日の御室カレー(日替わり)は
鹿児島県 喜界島産 無農薬白ゴマを使った坦々カレー。
まろやかで美味しかったな…。
仁和寺の門前でカレーを食べるって言うのも修学旅行ではありえないし、
もちろん酒もそうなんだけど、自分を自分らしくさせるものは
集団…同調…そういう学校生活や、友人と巡る観光地ではないな、と。

「右京じかん」と言うフリーペーパーをもらい眺めた。

それぞれの街にそれぞれの生活があって、
旅と言うのは誰かの日常にお邪魔をするようなもの。
そこにはそこの日常のルールが確実にあって、
それは「この街の人は何とか小学校の学区」とかでもいいし、
夕方5時のチャイムでも、お気に入りの飲み屋の定休日とか、
帰宅時になんとなく調べる終電の時間とか…なんでもいいんだけど、
外からでは知る事の出来ない世界があって、
その凄く個性的な世界がこの世には沢山存在する事を忘れていると、
自分の日常がとても窮屈に思える。

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(写真は雙ヶ岡の一の丘から眺めた京都)


だけど、ふっと無数の中のひとつの自分が、
時間や距離を越えて共鳴したりする瞬間は生きている感じがします。
営んでいると言う事は、そういう事だな。
自分らしくある為の連続性は「死」ごときでは切れない。
永遠に近いかそれより長い。
容易く言葉に出来ないものを表現するのは難しい。
それは音や絵や…それが補うのかどうなのか…こころだって考え中。
魂が焼き切れそうな思い。

街に戻る。
JRの花園駅まで歩いて二条に出て、地下鉄に乗り換えいつもの京都へ。

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三条大橋の時間の流れはとても愛おしい。
ここでは時間の流れが川の流れとオーバーラップする。
そんな時間の淀みで青い鯉たちはぐるぐる回り、
湖で滞ったりしながら、深い海で蒸発して山に降り注ぐような。
それは輪廻そのもので、世界は宗教そのもので、
与えられる名前が雨でも、雪でもそれは神様が微妙なさじ加減で決める。
恵みと呼ばれたり、災害と呼ばれたり、人は自分勝手だ。

この日はとんびが多かったな。
前は本当にカラスが飛んでいたんだけれど、思い返すと
あのカラスは舞うと言うよりもスーッと消えるように遠ざかってた。

三条を歩きながら椎名林檎の「茜さす 帰路照らされど...」をイヤフォンで聴いた。
三条通川端通の交差点こそが僕にとっての
「何時もの交差点で」を思い起こす交差点なのだ。

宇田川町でも、瀬田でも、片倉高校前でも無く。
あぁ、そう言えばロビンソンにも「いつもの交差点で」って歌詞があるな。
ここでブログを書いている僕はハチミツなんぞを聴く訳です。

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三条大橋を渡ると自分の人生が違うステージに入る気持ちになります。
特に理由は無くて、多分それは思い込みとかだと思うのだけれども、
そう思うのだから特にその感覚を誰と共有できなくても仕方ない。

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考えるだけ、トリミングするだけで自分の世界を創れるなら容易い。
キャンバスや五線譜。そんなお洒落なものが無くとも
目。耳。手。その他もろもろの自分を動かす。


誰でも知っているのかもしれないけど僕にはよく判らない事もある。
インプットは感じる事では無いし、アウトプットは創る事ではない。

長くなりそうだな…とりあえず一度この辺りでティーブレイク。