How to Live as an Artist.

ただ過ぎる時間をいとおしく綴る。昔みたいに。

新しい孤独の見つけ方

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どこから書いていなかったかな、と思ったら
もう愛知~岐阜を旅して来たあたりからか…。

色々ありました。
本当に色々あったので、言葉にする事が何もなかった、と言うか。
その辺り人間って言うのは不思議で
言葉にしたくなる事は大体、自問自答…自己暗示…そんな感じで
共感を求めるまで行かなくても、自己肯定をするための
一つのプロセスであったりもするから、
満ち足りてしまうと「それはもう心の中で守ろう」と言う気持ちになる。


朝太陽に挨拶をする愛おしさ、その日の下で深呼吸できる喜びや必要性を知っていても、
町が眠っている時に自分が目覚めていて、その中で心の奥で…冬の室外機とかみたいに軋む音が
妙に芸術的でそれを真空に閉じ込めていたいような衝動に駆られる。
孤独が過去や経験を超えて羽ばたく夢を見たい。抱擁を。


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夜行バスで都心を逃げ出して早朝に名古屋駅に着いて、
日の出と共に熱田神宮を参拝して心を律してから
何の計画も立てていなかったけれども、情報として三河湾
島がある事を知ったので、そこに行ってきた。
佐久島という小さな島。

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離島に来るとは思ってもいなかったので
人間と言うのは不思議な行動をするな、と思った。

用事もなくて、目当てのものがあったわけでもなく
それでも遠くに行きたくなる。

島に行く前日にとある方と食事に行き、
それなりに高級な白ワインを飲んで、美味しいチーズを食べて。

自分の心の中で、それまでとは違った類の感情が生まれた事に戸惑った。
あれだけ「もう何も望まない」と言うのを徹底したはずなのに
優しい声や、穏やかな会話の中に安らぎを感じて、
それが自分を壊してしまう気がした。

それは、この島に行った時の思い。
この日からもう一ヶ月近く経っている。

永遠に届かない場所にしか欲しがっているものはなくて、
この生活を生き抜いても辿り着けっこない。知ってる。
ただ、自分の知らなかった喜びと出会う可能性を日常は秘めている。
キラキラ光る川、河川敷にまう桜の花、この世を讃える様な風景はどこにだってある。
目の前の希望は過去にも未来にも勝てる。


日々を重ねていくと、少しずつ、少しずつその思いも変わっていく。
それは悲しいくらいに自分だけの感情で世界は微動だにしなかったりもするし、
言葉や表情で装飾しても変えられない事ばかりで途方に暮れる。

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海の飛沫。
無数の生命を抱え込み、血の赤も透明に変わっていくような気がする。
まぶしい光をぼんやり眺める。

どこに行っても生きていける気もするし、
いつ死んでもかまわない気がする。

言葉にすればするほど、あの呼吸が止まる気がする程の一瞬は整っていってしまうから。
その衝動と、その激しさの美しさは心の中で名前を持たずに抱いているしかない。
それか、その痛みと激しさを共有するような何かに溺れるしかない。
俺は苦しい訳じゃなく道を誤った訳でも無い。綺麗すぎる夜空の罪だ。

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ふと、前日の事を思い出す。
俺の心って何でこんなになっているんだろう…と。

胸が痛い。
なんで愛されてるのに死んでも構わないなんて思ってしまうのだろうか。

何人もの恋人と…同世代の男性と比べたらおそらく多くの人と
真面目に恋愛をしていたので、気付くと横に誰かがいた(気がする)。
気付いたら一人旅に出れる環境も10年以上なかったんだな。

一人で感じる孤独と、恋人と感じる孤独は全く違う孤独だ。
どちらの方が寂しいのか…基準は分らないけれども
自分を好きな人がいるのに、自分が自分を好きになれないのは苦しい。
生きているだけで何かを裏切り続けている感じがする。

週末の公園、橙の空、桜が咲いてる。
この永遠に消えないと強く願う痛みのような思いさえ、なんてことなく日々にかきけされていく。
ただ、年老いて自分を振り帰る時に決して消えない大切な出来事に自分が包まれている実感を。
素晴らしく、絶望的に形を持たない情感のイメージを何かで世に残せたのなら。


音楽。
分りやすい方法で人と分りあえる便利なツールだと思う。

循環コードの安心感は心に馴染みやすく、
いつだってカノンのようで心を穏やかにしていく。
メジャーセブンスの響きは切なくて美しいし、
ナインスなんかが重なると、どんどん感傷的になっていく。

口ずさめるメロディは懐かしく、
ハーモニーは重なり合って生きる喜びとして響いたりする。
オルタードやらコンディミやら、複雑なスケールはスリリングに響き
シューゲイザーのような爆音の初期衝動は痛快で。


なんて下らないんだろう。

四方八方に自分の考えが飛び散ってるのを纏める作業にそろそろ入らないと
不自然になってきているなぁ、と。
まぁ、でもその他人から見ても、自分でもさっぱり行方不明な感じがいいっちゃ良いのかも知れないし。
何と言うか、怖い物が何もない状況って本来あんまり生まれないから稀有な状態とも言えるか。


結局、人には何も伝わらない。
そもそも自分が表現をしたいな、と思ったきっかけは疎外感だった。

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昔から人より少しだけピアノが上手だった。
ギターも何故か初めて持った時からなんとなく弾けた。
ドラムも叩けたし、エレクトーンで曲も作れた。

音楽をやっていて苦労した記憶ってあまりない。
それは苦手意識を持つ前に諦めてきたからな気もするけど。

強いて言えば高校生の時にギターを背負ってスタジオに行くのが嫌いだった。
バンドをしている時に機材を抱えて歩くのが恥ずかしかった。

音楽について語りながらスタジオでミュージシャン仲間と
ディスカッションするのが苦痛だった。
レコーディングの時に先輩のエンジニアさん達に気を使うのが面倒だった。

そう言う悩みは全部音楽活動の悩みと言うよりは
性格とか、人間関係の悩み。

この島で、頭に鳴っていた音をそのままパッケージできたなら
それはどれだけ美しいだろうか…と頭の中で2~3曲完成させたら
ため息が出た。

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重なり合う青に、まだ冷たい3月の潮風。
憧れだけで空に綴る誰かの名前に確かな恋心を感じていた。

それがどうしようもなく馬鹿げた気持ちな事も全部知っていたし、
別の世界にでも行かないと叶わない夢を見ている気持ちだった。

出会う前の名前を持たない月日を数える気にもなれず、
子供の頃の僕は、もう忘れてしまった何もかもを抱えて
憂鬱を噛み砕いていた。

軽く躁で実際、イライラした空気で地に足が着かなくて、なにも手に付かない。
けど、労働時間と制作意欲のバランスは悪くないし
「人を好きになる衝動」とか「重荷を感じる現実」とか…そう言う事も節操なく訪れ続けているし。
それを楽観も悲観もしないで受け止めるためには浮ついてる事も必要なのよね。




島から戻る。

三河一色。ついこの間まで名鉄の駅があった場所。
今は廃線になって一日数本のバスだけが行き交い、
寂れた商店街に人通りはない。

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最初からエネルギーがなかった訳じゃなく、執着して、色々あって、疲れてしまった。
とりあえず「よし、やるか」って言う決意表明すら疲れでどこにも繋がらない。
身体の疲れでも、日々の疲れでもなく、磨耗してしまった精神が全ての受け入れを拒否している。
そして、それは自分が求めていた状態に近い。


達観して見つめ直さないと現実が物凄く憎い気もするし…
でもそんな瞬間に遺伝子が覚えてる優しい記憶や、全てを超えた美しい瞬間がしっかり訪れるから
生きるって素敵だなって思う。
誰だって好きな人からのメールを待っている方が悩んで苦しんでいる時間より愛おしい筈で。
そんな当たり前に憧れてきた。


でも、そんな当たり前が盲目的に人を陥れる「躁と鬱」の前では無力になる。
それを感覚的に理解すると自分の本質を捕らえ直す事が出来てくる。
病名とか日常の悩みを無闇矢鱈と真正面から受け入れるのではなく…
えぐい変化球でも早いストレートでもファールで粘り続ける事が生きるって事だな、と思って。

常にホームランを打てないといけない訳じゃないし…
どんなに不公平なジャッジをされてもファールで粘るのでも良いし。
物凄い憂鬱でも次の打席もゲームセットまでは必ず来る。
そして相手を憎むなんて事はもってのほか。自分なりの哲学で粘っていれば、
何らかの形でヒットは打てるもんかもしれんのだし。

もしかしなくても大体の日に何も特別な事はおきない。
逆転満塁ホームランやら、そもそもそういう舞台で打席に回って来てない。
想像を絶するビハインドの前ではどんなに綺麗なクリーンヒットでも意味を持たなく感じてしまう。
だけど、そんな時に通算打率に今一度、目を向けれる強さがあればな、と思う。


真実ってなんだっけ?とか思うと、夢想家で居るには辛い事が多すぎたって言うか、
言い換えれば向き合ってる現実で満ち足りてる、というか。
真実って新鮮なサラダや新しいYシャツやそんな部分にしかなくて
自分をどんなに開いてアーティストとして心を開いても、そういう日常に対してはあまりに弱くて。

誰かの心に寄り添える作品を…と願うより声を大にして「セルフセラピーで良いと思う」って感じるのならば、こりかたまった自分らしさが作り出す虚栄心みたいな…そういう意味を作品に持たせたくないって言うか。
そこには奇跡は起きない、と言うか。ただ大切な人を感動させるピアノで奏でていたいのだ。

強いて言えば俺は多分…多分だけど音楽がやたらと好きな思想家なのだと思う。
一部の人の人生にカリスマ的に影響を与える事にはぬかりないと言うか…
その辺りのあざとさにうんざりする事もあるからな。
でも凄いって言われたくはないのよ。
飲んだくれの馬鹿目線に強い思想家としての自分の意思を感じる。

もっと幸運な感じでここでホームランを打てば逆転満塁ホームランになる、って場面が来るか来ないかは
自分で考える事でもない。
だからと言って前の打者の凡打や相手投手を憎むのも違う。
結局抗わない事と、なるようにしかならない事ってイコールだから。
そこで凡打を打つ自分も愛せないと生き抜けない。

それなりに好きな場所を訪れ、好きな物を食べ、お酒を飲んで…
好きな仕事をしつつ、大切な人が居て…それって凄く尊いことだな、って日々世界に教えてもらってる。
それでも少しだけ運命を恨んだりもする訳だ。
自分勝手だなぁ、と思いつつ。人それぞれが抱えた重荷の中でどこまで自分らしく行けるか…。

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salyuの THE RAINを聴いてる。

窓の外は雪だけど。
雨に打たれて歌う。痛みと踊る。

いつだって、いつだって。
思いはまとまらない。

心を蝕むのはいつだって優しさだ。